落ち込んでいるはずなのに、どこか浸っている感じがある。自分を責めているのに、その時間が嫌いではない。

もしそう感じたことがあるなら、たぶん気のせいではありません。私もそうでした。

自分を下げておくと、ラクになる

正直に書きます。私は長いあいだ「自分なんか」と思っていました。自分はキモいし、アホだ、と。

それで分かったことがあります。先に自分を下げておくと、できなくても仕方がなくなるんです。

アホだから仕方ない。キモいから仕方ない。そう決めておけば、うまくいかなくても説明がつきます。傷が浅くて済む。挑戦しなかったことにも、理由がつきます。

つまり、自己否定はちゃんと役に立っています。ラクになるためにやっているんです。だから気持ちいい。落ち込んでいるように見えて、実は自分を守っている。

アドラー心理学に、怒りは原因ではなく手段だ、という考え方があります。怒りたいから怒るのではなく、何かの目的のために怒りを使っている、と。自己否定も同じだと思っています。目的があってやっていることです。

でも、本当は否定してほしいわけじゃない

ここが厄介なところです。

自分を下げているとき、本心では否定してほしいと思っていません。「そんなことないよ」と言ってほしいだけです。少なくとも私はそうでした。

でも、そう言われたところで解決しませんでした。

私は昔から「優しいね」と言われることが多かったのですが、その言葉が本当に嫌いでした。自分では優しさでやっているつもりがないからです。自分がしたいからやっている。自分のための行動なのに、優しいと言われる。

言ってほしかったはずの肯定が、来た瞬間にズレる。自分の認識と、他人の評価が合わない。そのギャップで、けっこう死んでいました。

だから自己否定は、目的を達成できません。ラクにはなるけれど、欲しかったものは手に入らない。ここが、この方法の一番だめなところだと思います。

「じゃあ逆に、何ができるの?」

今、生徒が「どうせ俺なんか」「俺、これできんもん」と言うとき、私はこう聞きます。

じゃあ逆に、何ができるの?

意地悪で聞いているわけではありません。本当に探しています。一つでも見つかるまで、深掘りして聞きます。

たいてい、最初は「何もない」と返ってきます。でも聞き続けると出てきます。ゲームが上手いとか、寝坊しないとか、なんでもいいんです。

できないことの一覧は誰でもすぐ出せるのに、できることの一覧は誰も持っていません。それだけの話だと思っています。

それに、自己否定が得意な人は、自分の欠点をものすごく細かく分析できます。あの解像度をそのまま逆側に向けたら、たぶん相当なものが出てきます。

今も、ちょっとあります

最後に正直に書いておきます。私の自己否定は、今も少し残っています。無くなってはいません。

ただ、前と違うところがあります。やっている最中に、「あ、今、自己否定してるわ」と気づけるようになりました。

気づけていれば、たぶん問題ありません。浸りきってしまうと出てこられませんが、今これをやっているなと分かっていれば、そのうち終わります。

無くす必要はないと思っています。気持ちいいものを、無理にやめなくていい。ただ、それが気持ちいいものだと知っておくだけで、扱いはかなり変わります。


「自分なんか」と思ってしまう理由については、こちらにも書きました。

「何で悩んでいたのか、もう思い出せない」——「自分なんか」と思う夜に