「何で悩んでいたのか、もう思い出せない」——「自分なんか」と思う夜に
夜、家にいるのが苦しくて、誰もいない公園まで歩いたことがあります。イヤホンで音楽を聴きながら、ベンチに座って何時間かぼんやりしていました。何かが解決したわけではありません。ただ、そこにいただけです。
正直に書くと、あのとき何で悩んでいたのか、今はもう思い出せません。悩んでいた事実だけが残っていて、中身が消えています。たぶん、当時の生活に疲れていたのだと思います。
この記事は、今まさに「自分なんか」と思っている人に向けて書いています。解決策を渡すつもりはありません。ただ、その評価がどういう仕組みで出てきたのかを、一度だけ確認してもらえたらと思っています。
「自分なんか」と思うとき、物差しは1本しかない
私は貧乏な家に生まれました。なんとなくサッカーをやって、お金がないから公務員になろうと考えて、教員になりました。夢や希望があったわけではありません。何かに挑戦した記憶もない。
当時の自分を評価するとき、私が比べていたのは常に他人でした。もっと恵まれた家の同級生、やりたいことがはっきりしている人、実際に行動している人。その物差しで測れば、自分の位置は下になります。だから「自分なんか」と思う。順当な結論でした。
ここで確認したいのは、その結論が間違っているという話ではない、ということです。その測り方をすれば、その結果になります。計算としては合っている。問題は、物差しが1本しかないことのほうです。
絶対評価と相対評価という言い方があります。絶対評価は、固定された基準に対して測る方法です。相対評価は、ある集団の中で自分がどの位置にいるかを見る方法です。「自分なんか」と思っているとき、人は他人という集団の中での位置を見ています。そして、その集団を自分で選んでいません。たまたま近くにいた人たちが、そのまま比較対象になっているだけです。
位置は、集団が変われば変わります。これは慰めではなく、測り方そのものの性質です。
あとから測り直したら、評価が反転した
私の評価がひっくり返ったのは、教員として働き始めたときでした。
仕事量が多いとよく言われる職場です。それなのに、最初に思ったのは「この程度なら平気だな」でした。
なぜ平気だったのか。大学時代の自分と比べていたからです。研究に長い時間を使い、お金がないのでバイトも入れ、サークルにも顔を出していました。あの数年間を基準にすると、目の前の仕事量は収まる範囲に見えた。
このとき初めて、自分は結構頑張れる人間なんだな、と思いました。
ここが一番重要なところです。大学時代の私は、自分が頑張っているとは一度も思っていませんでした。研究が楽しかったわけでも、明確な目標があったわけでもない。ただ目の前のことを片付けていただけです。
さらに遡ると、実家では夜遅くまで店の手伝いをさせられていました。勉強なんかいらないと言われながら、それでも勉強していた。遊びは削りたくなかったので、ゲームもやりまくっていました。あの頃の自分に「頑張っているね」と声をかけても、たぶん意味がわからなかったと思います。
つまり、蓄積は自覚なしに進みます。そして、自覚がないので、その時点の自己評価には一切反映されません。公園のベンチで「自分なんか」と思っていたその瞬間にも、後から評価をひっくり返すことになる何かは、すでに積まれていました。
私がそれを知ったのは、ずいぶん後になってからです。
変えるのは自分の中身ではなく、測り方と場所
もう1つ、あとから気づいたことがあります。
考え方が変わったきっかけは、『7つの習慣』やアドラー心理学、それから大学の教育学部で習った心理学でした。読んでいて、なぜか胸が熱くなった。自分とは何か、自分は何をしたいのか。そこに初めてきちんと向き合えた気がしました。
では、なぜそれまで向き合えなかったのか。能力がなかったからではありません。インターネットのない家で育ったので、そういう考え方が世の中に存在すること自体を知らなかったからです。本は読んでいました。ただ小説ばかりで、今思えば、自分を登場人物に重ねたり、他人の人生に逃げ込んだりしていたのだと思います。
これは私の欠陥ではなく、環境の話です。触れる機会がなければ、選択肢は存在しないのと同じになります。
だから、もし今「自分なんか」と思っているなら、変えるべきなのは自分の中身ではないかもしれません。誰と比べているのか。どこで測っているのか。そちらを先に疑ってみる価値はあります。
私の場合、きっかけは人からの一言でした。当時付き合っていた同級生に「〜したいとか、〜できないとか、いつも言ってるのに何もしてないよね」と言われたのです。図星でした。そこから読む本が変わり、生活が変わっていきました。
ただ、これを「誰でもこの一言で変われる」と書くつもりはありません。あの言葉が刺さったのは、たまたま順番が合っていたからだと思います。あのとき言われていなければ、本も手に取っていない。逆に、もっと早い時期に言われていたら、反発して終わっていたはずです。
言葉が効くタイミングは、こちらの都合では決まりません。
正直に書くと、今でも苛立つことがある
教員をしていると、生徒が「俺、これできんもん」と言う場面に出会います。やってもいないのに、そこで止まっている。正直に書くと、私はこれが今でも苦手です。やってから考えようよ、失敗したっていいやん、とつい思ってしまう。
ただ、この苛立ちの正体はわかっています。かつて何もしていなかった自分に向いているだけです。言うだけで動かなかった数年間を、私自身が知っています。だから、目の前で同じことが起きると反応してしまう。
そして、あの頃の自分に「動け」と言ったところで、たぶん動かなかったとも思います。必要だったのは説教ではなく、別の物差しに触れる機会のほうでした。
おわりに
今「自分なんか」と思っている人に、頑張れとは書きません。動けない時期は実際にあります。私にもありました。
代わりに1つだけ書いておきます。今のあなたの評価は、確定していません。それは、物差しが1本しかない状態で出した暫定値です。比較対象が変われば数字は動きますし、そのとき自分が何を積んでいたかは、あとになってからしか見えません。
私はあの夜、公園で何を悩んでいたのか、もう思い出せません。ただ、嫌々やっていた店の手伝いも、意味を感じていなかった勉強も、削りたくなかったゲームの時間も、全部あとから効いてきました。
目の前のことを片付けているだけで、今は十分です。それは後から、別の物差しで測り直されます。