映画を、誰かと一緒に見に行きたくありません。

苦手なのは見終わったあとです。相手が先に感想を言うと、自分の中にあったはずの感想が上書きされていきます。かといって自分から言えば、つまらないと思われるかもしれない。そもそも、感想を口に出すこと自体が恥ずかしい。うまく説明できない感情です。

先に断っておくと、この記事は克服した話ではありません。私は今もこうです。いい大人が書くことではないのかもしれませんが、事実なので書いておきます。

感情を出さずに動く方法を、先に覚えてしまった

振り返ると、私には主体性がありませんでした。

こうすればいい子だと思われる。こうすればうまくいく。そういう経験則だけで動いていました。自分がどうしたいかは考えない。というより、考えるという発想がなかった。感情を挟まないほうが、物事は滑らかに進みます。だから身についてしまった。

本は読んでいました。ただ小説ばかりです。今思えば、登場人物に自分を重ねたり、他人の人生に逃げ込んだりしていたのだと思います。自分の感情を、自分の名前で扱わずに済ませていた。やっていたことは同じです。

自分の感情を出さない技術だけが、先に育ちました。

「好き」だと気づいた、最初の一つ

変わり始めたのは大学のときでした。

化学が好きなんだな、と初めて思いました。ただ、正確に書くとこうなります。研究内容が好きだったというより、これに精一杯打ち込んでみようと決めた。そちらが本音です。好きだから打ち込んだのではなく、打ち込むと決めたから好きになった。順序としては逆でした。

教授が喜ぶように頑張って、研究発表会にも行きました。そこでようやく、自己満足を堂々と持てるようになったという感覚がありました。

誰かに認めさせたわけではありません。すごいと言われたわけでもない。ただ、自分がこれに打ち込んだという事実を、恥ずかしがらずに自分で持っていられるようになった。それだけです。

やりたいことが見つからない、という悩みをよく聞きます。私の実感で言えば、順番は逆でも構いません。先に決めて、打ち込んでいるうちに好きになることはあります。

それでも、恥ずかしさは消えていない

ここまで読むと、その後は堂々と生きているように見えるかもしれません。実際は違います。

たとえば、私は自己啓発本を読みます。ただ「自己啓発」という言葉自体が嫌いです。そう言うと意識が高いと思われる。それがうざいし、恥ずかしい。本のジャンルとして楽しんでいるだけなのに、ラベルのほうが先に来てしまう。だから人には言いません。

もう一つあります。人から「優しいですね」と言われるのが、昔から苦手です。自分がしたいことをしているだけ、自分のための行動をしているだけなのに、優しいというラベルを貼られる。そのギャップにずっと苦しんできました。この言い方が合っているのかも、実はよく分かっていません。

つまり、恥ずかしさは今も残っています。消えたのは恥ずかしさではなく、恥ずかしいまま動けなくなることのほうでした。

だから、黙って置くことにした

今、化学室に本を置いています。

これまで自分が読んできた小説や、例の自己啓発本もあります。生徒に「これを読め」とは言いません。読んだかどうかも確認しない。ただ置いてあるだけです。

理由ははっきりしています。私自身が「これ好きなんだ」と言えないからです。同じように言えない生徒が、確実にいるはずだと思っています。

人から勧められた本には、受け取る側にもラベルがつきます。誰かに勧められて読んでいる、という状態になる。でも、ただ置いてあるだけなら、誰にも知られずに手に取れます。読んでみて、つまらなければ黙って戻せばいい。感想を言う必要もありません。

おわりに

「好き」と堂々と言えるようになりましょう、とは書きません。私が言えていないからです。

ただ、恥ずかしいまま続けることはできます。誰にも表明せず、黙って置いておくこともできます。自分が何に打ち込んだかを、自分の中だけで持っておくこともできる。

自己満足で十分です。堂々とした自己満足を一つ持てたら、それでかなり違います。

私は今も、映画は一人で見に行きます。